♪二上山の落日〜現世の人なる我〜  現代語作詞・作曲・歌 万葉うたいびと風香

 

使用した万葉集  巻2−165、166 大伯皇女

 

現世(うつそみ)の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)と我(あ)が見む

磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに

 

 万葉の歌を作っていると作者の深い思いに触れる瞬間がある。もちろんどの歌もこの感動があってこそ歌になるだが。

 この歌は大伯皇女が関わったとされる三重県名張市にある夏見廃寺、創建1320年祭の出演依頼を受け制作した、『万葉歌物語 二上山の落日 大伯皇女の嘆き〜斎王として 姉として』の作品の中に収めた1曲である。大伯皇女が万葉集に残した歌を全て歌にしたためて思ったのは、斎王として、姉として生きた大伯皇女の心の動き、変化を強く感じたことだ。

一部ご紹介しよう。この2首の前に歌っているのは「神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに」、「見まく欲り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに」。伊勢の神宮(かむのみや)で斎王としての任を解かれ戻ってきた大和。しかし既に弟、大津皇子はいない・・・。「何しか来けむ」(何のために帰ってきたの?)と繰り返しているこの2首に、大伯皇女の悲しみの頂点があると感じている。いはば絶唱。そして二上山の歌、「現世の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世と我が見む」。現世に生きる人である私は明日からは二上山を弟そのものとして見続けていくわ。「現世に生きる人である私」、客観的に自身を見つめ生身である限りは生涯かけて弟を見続けていくという強い決心が感じられる。この歌の前に大津皇子の屍(しかばね)を二上山に移し葬る時にとあり、その場所については葛城市染野 鳥谷口古墳が最有力。二上山はサヌカイトの産地。石切場も見られる。この古墳近くに初田川が流れる。砂防工事の為その景観は古代と異なっているが古地図と併せその上流に古代の情景を求め歩けば「磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに」の歌が活き活きと鳥谷口古墳前に響きわたる。現代語の歌詞にはその情景も織り込んだ。歌の解釈は「磯(ゴロゴロとした水辺の岩場)の上に生えている馬酔木に手を伸ばしとって見せようとしても、その弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない」。罪人として移葬された者のことを口にすることは禁句だった。そこにも大伯皇女の深い悲しみがあり、「現世(うつそみ)の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)と我(あ)が見む」の歌を繰り返し詠めば、だからこそ永遠に私一人が弟を守り見続けていくという皇女の決意がひしひしと現代に生きる私たちに伝わってくるのである。二上山の落日は斎王として 姉として生き抜いた大伯皇女の嘆きも包み込んでいるのであった。

 

 

 

♪いざよふ雲    現代語作詞•作曲•歌 万葉うたいびと風香


使用した万葉集  巻3−428 柿本人麻呂

隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山の 山の際(ま)に 

                                          いざよふ雲は 妹にかもあらむ

 

火葬は『続日本紀』によると、文武4年(702年)に僧道照を奈良県桜井市粟原で3月10日に葬ったのがはじまりだという。この歌が詠まれたのは歌群からみると705年前後と考えられている。題詞には土形娘子(ひぢかたのおとめ)を火葬した折に人麻呂が詠んだ歌と書かれており、土形娘子は伝不詳ではあるが遠江国城飼郡土形、土形氏出身の娘子であったらしい。大意は、愛しい人が今、火葬の煙となって立ち昇っていく。その煙はやがて隠口の泊瀬の山間にさまよっている雲となってゆく、あの雲は僕の愛しい人なのだろうか。。。

愛しい人を亡くし哀しみの中にあるにも関わらず、悲しい、切ないという言葉は一切使わず泊瀬の山間にいざよう雲に自身の哀しみの深さを表現する人麻呂の一心さが伝わってくる歌となっています。泊瀬(はつせ)は、四方を山々に囲まれた籠った場所の意の他、果つる所で泊瀬の意にも捉えられています。山間にかかる雲は泊瀬地方の風土の象徴でもあり、現在もそのままの姿を伺うことができるところに大和の素晴らしさ、桜井の素晴らしさがあるのだと歌を越えた美しさも感じずにはいられません。現在にも通じる古語の美しさ、はかなさも感じながら泊瀬の山々にかかる雲に思いを馳せ人麻呂の心の奥底にあった哀しみに寄り添ってみると、今も何ら変わらぬ日本人の心に触れることができるようです。日本の伝統、文化とあまりにも簡単に言葉だけが先走っていく昨今ですが、人麻呂の中にある最も古くて最も新しい日本人の心、文化の神髄がここにあるように思っています。やはり万葉集はいいものですね。

                        CDアルバム「文に麗はし」に収録

♪伊勢志摩の島影     現代語作詞•作曲•歌 万葉うたいびと風香

(万葉歌物語『伊勢行幸と持統天皇の夢』より)

2016 伊勢志摩サミット三重県民会議応援事業

 

使用した万葉集 巻1−40、41、42       柿本人麻呂

鳴呼見の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 玉藻の裾に 潮満つらむか

釧着く 手節(答志)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ

潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を

 

持統六年(692年)3月6日から20日にかけて行なわれた伊勢行幸。その旅先を偲んで柿本人麻呂が京(みやこ)に留まって作った歌であることが題詞から読みとれる。

巻1−40にある鳴呼見の浦(あみのうら)は、諸説あるが鳥羽市小浜付近とする学説を支持したい。鳥羽郷土史会さんによると現在もあみの浜と呼ばれている小地域を指すそうだ。今、付近一帯は小浜温泉郷とでもいうのだろうか。ホテルが立ち並ぶ観光地に様変わりしているが、浜辺を求めて歩くとわずかながら往時の趣きを残している浜の情景に出会える。

そのあみの浦に立って伊勢湾を眺めると歌のままに一直線に波間の向こうに答志島、そして遥か先にぼんやりとした島影になって伊良湖が望めるまさに万葉のふるさとである。

さて、万葉歌を楽しんでいこう。

1首目は、あみの浦で舟遊びしている乙女たち。まだどこの誰ともわからない。2首目では、あみの浦の向こう、答志島を導き出すのに釧着く 手節(答志)の崎といって、古代人が左手に巻いた釧(くしろ=腕輪のこと)その手の節で答志島を呼び込んでいる。そして1首目の乙女が大宮人(都に使える女官)だったと距離が縮まる。更に玉藻を刈るという行為。これには身を浄めるといった意味合いもあろう。そして、3首目。答志島から更に遠く、潮目の荒い伊良虞(現:伊良湖)の島辺で舟に乗っているのは、僕の愛しい人だったと打ち明けてこの歌が終わる。視覚的な情景はだんだんと遠ざかるのに対して、心の中で思い描いている人は、乙女→大宮人→妹と見事なまでにその距離感を縮めてこの歌を締めくくっている。ちなみに692年の伊勢行幸には行っていない人麻呂であるが、細部にわたってあみの浦からの情景が描かれていることから、過去に人麻呂はここからの景色を眺めたことがあってそれを踏まえての歌であったであろう。

万葉集中の人麻呂の歌の中でも最も明るく歌われた歌と言われているこの歌群を通して、改めて人麻呂の偉大さを教えられたそんな歌となりました。

万葉歌物語を通してこの歌を味わって頂ければ、その前後の歴史的背景と共に人麻呂の詠った伊勢志摩の島影が皆様の心の中に更に広がることを願っております。

 

                              アルバム未収録

 

 

♪泊瀬川        作詞・作曲・歌  風香

  (第10回万葉の歌音楽祭 大賞受賞曲)

 

使用した万葉集 巻7-1107、1108               作者不詳

泊瀬川 白木綿花(しらゆふばな)に 落ち激(たぎ)つ 瀬を清(さやけ)みと 見に来し我れを

 泊瀬川 流るる水脈(みを)の 瀬を早み ゐで越す波の 音の清(きよ)けく

 

私の大好きな桜井市を縦断して流れる泊瀬川を歌にしました。

名古屋から近鉄特急に乗って大和へ向かうと、吉隠あたりから眼下に飛び込んでくるゆったりとした流れが泊瀬川です。途中、左側に川の流れが変わると、そこは私の中での通称「プチ宮滝」!ちょうど大和朝倉駅から程近くにあります。そこを過ぎるとまた穏やかな流れに戻り、金屋方面へと流れ進んでいきます。

 歌詞に込めたように、この美しい流れを「見に行こう、見に来たわ」との男女の誘い、誘い合ったであろう言葉のやりとりが1300年前にもこの川岸でされていたのでは、、、と思うだけで歌詞を作りながら往時の情景が浮かんでくるようでした。ここで表現されている「白木綿花」(しらゆふばな)。これは他の句からわかるように、当時ここ泊瀬地方に住む女性、泊瀬女(はつせめ)(未婚の女性)によって、楮などを原料とした造花の白木綿花が作られていました。堰を越す時にはじける水しぶきが、何者にも染まることを知らない純白な白木綿花みたいだっていうんですね。素敵すぎます。同じ「清い」という漢字を当ててますが、「さやけみ」と「きよけく」と、読みを変えているのも、古語の美しさが感じられる表現となっています。どの曲もそうですが、自分の意訳を交えて歌を表現する場合、あくまでも万葉集の句に忠実に、言い換えれば、万葉集の歌を詠んだ作者の想いをそのまま現代の言葉でわかりやすく表現することの大切さをこの歌を作って改めて思い知らされています。

 

                      CDアルバム「文に麗はし」に収録

 

♪祈り~伝 薬師三尊石仏イメージソング~         作詞・作曲・歌 風香

 

使用した万葉集 巻2-112 額田王

「いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 吾が思へる如」

 

奈良県桜井市忍阪にある国重要文化財、伝・薬師三尊石仏のイメージソングとして作らせて頂きました。

この石仏は、一説によると額田王の念じ仏とされており、忍阪より更に宇陀方面に進んだ粟原寺にあったものが何らかの理由によって川の流れの如く、忍阪に辿り着き、現在は区民の人々の手によって守られている石仏です。

イメージソングのご依頼を頂いてから、粟原寺跡も含めて何度か足を運ばせて頂き、透き通るような柔らかな微笑で見つめ続ける姿に、願主がどういった思いを石という素材を通じた石仏に込めたのかを、額田王の晩年の万葉集の句を引用して額田王自身の思いを引き出しながら、歌詞に表現してみました。といっても、一流の万葉歌人とはやされた額田王に関する文献史料は、皆さんもご存知のように非常に乏しく、石位寺のある風土や、彼女を取り巻く人々、金石文などをあたっていきながらの制作となりました。また、忍阪の皆さんが日々大切に守ってみえる姿にも私自身深い感銘を受け、今ある姿といにしえ人の心を結んだ歌詞も織り込んでみました。

 

                     DVDアルバム「祈り」

                     CDアルバム「文に麗はし」に収録

 

♪寒からまくに                   作詞・作曲•歌 風香

 

使用した万葉歌 巻巻2−114、115、116但馬皇女/203穂積皇子

 

「秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも」

「後れ居て 恋つつあらずは 追ひしかむ 道の隈廻に 標結へ我が背」

「人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」

「降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに」

 

万葉集でもいわずと知れた穂積皇子と但馬皇女との悲恋物語です。

この4首の扱いについては、学者さんたちの中でも意見の分かれるところで、特に115番の句(後れ居て・・・)については、3首との連歌ではないという解釈も多くありましたが、私の心の琴線に触れた文献のおかげで、4首揃えた楽曲として但馬皇女の真実の思いを歌に載せることができたように思っています。

曲の構成については、ずいぶんと悩みましたが、但馬亡き後、雪がしんしんと降る日に穂積皇子が吉隠(奈良県桜井市吉隠)の方角に目をやり、思いを馳せる場面を歌詞冒頭にすることによって、曲をはじめることにしました。

但馬皇女の場面は、あくまで穂積皇子の心の中での回想シーンとして捉えて頂くことによって、タイトルとした「寒からまくに」の言葉がより深みを増すことを願っています。

「朝川渡る」。これは穂積に会いにいくところだった、いや帰り道だと議論がつきませんが、ここではそれはおいておいて、朝川を渡った但馬の覚悟と強い決意、更に穂積に寄せるただただ一途なひたむきな愛情が伝わってきます。

 また「言痛く」(こちたく)など、身を突き刺すような古語の表現が多く見られます。悲しさや辛さの中にも現代には美しい表現となって心の中に広がってきませんか。こうした日本語の美しさを、現代語を織り交ぜながら表現した歌詞からも感じて頂ければ嬉しく思います。尚、映像に出てくる吉隠の雪景色は、制作当時忍阪区の方々が雪降る吉隠を日々待ちわびて下さり、雪景色となった朝、長靴を履いて徒党を組んで現地へ赴き写真撮影してくださったものです。こうした風土そのものの映像は穂積皇子、但馬皇女の思い、そして忍阪区の思いを1つとしてくれたように感じています。そんな映像も合わせてお楽しみください。

 

 

                      DVDアルバム「記紀万葉さくらい」

                      CDアルバム「文に麗はし」に収録

 

                                     youtube:2016「万葉恋文歌絵巻」よりオリジナルバージョン

  iTunesより配信中

    万葉うたいびと風香's ブログ
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