♪万葉ヒストリーソングで紡ぐ 「二上山の落日 大伯皇女の嘆き 〜斎王として 姉として〜」

全曲現代語作詞・作曲・歌 万葉うたいびと風香

 

 

現世の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)と我(あ)が見む

磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに                   万葉集  巻2−165、166 大伯皇女

 

二上山。現代においてにじょうざんと呼ばれる。近鉄大阪線、大和八木駅から先頭車両に移動。正面に見えるのが二上山。さらに進むと車窓左手に二つのコブがはっきりと。雄岳と雌岳である。車掌さんのアナウンスで「次はにじょう、にじょうです」と聞こえる度「ちゃうねん!ふたがみ〜ふたがみ〜やろ」と私の心の声がする(笑)。万葉ファンのあなたならきっとうなづいてくれているはず^^

 さて、今回はその二上山に葬られた(正確には改葬された)大津皇子を弟に持つ大伯皇女が斎王として姉として生き抜いた生涯を描いてみました。

斎王(さいおう)とは、天皇に代わって伊勢神宮 天照大神に仕える女性で、天皇の子の中でも未婚の女性が選ばれました。日々は伊勢神宮そのもので祈り捧げるのでなく、斎宮(さいぐう・いつきのみや)(三重県多気郡明和町)で斎み籠り天照大神に奉仕し特別な日には伊勢神宮に出向いたとされています。伝承時代の斎宮は日本書紀/崇神垂仁朝にみられる豊鍬入姫が始まりですが、実在の人物としては大伯皇女が初代とされています。大伯皇女が初代斎王として遣わされたのは壬申の乱後、父天武天皇が即位してからです。ここには律令国家形成を目指す父天武天皇の伊勢神宮の重視が深く関係してきます。(2015年上演作品「万葉ヒストリーソングで紡ぐ伊勢行幸と持統天皇の夢」で明らかになっています)

 ここからは物語中の地理的な解説も交えて。

冒頭にあるのは泊瀬斎宮(現:奈良県桜井市脇本 脇本遺跡と言われる)。2012年にこの場所から建物跡が発掘されより確証高くなりました。。映像は脇本にある春日神社。伊勢の斎宮へと向かう前、まずはここで身を清めたとされる。斎宮跡付近には万葉集にも詠まれる泊瀬川が流れており、背後の三輪山麓からは川に注ぐ清泉が流れ込み河川敷に降りる場所を探し求めれば大伯皇女そのもの。そこから伊勢へと向かったのだ。(行路に至ってはほぼ近鉄大阪線だと考えられる)

 祈りの日々を伊勢の斎宮で送る大伯皇女を訪ねたのが阿閉皇女(のちの元明天皇)と十市皇女、皇女たちに仕える吹黄刀自。その吹黄刀自が歌をよんだのが伊勢の国、波多(三重県津市一志町)。この場所が詠まれた理由として波多の横山(場所については未だ未確定、映像冒頭は中西進氏の説く波多神社辺りから撮影した波多の横山、清流の磐群は一志町井関で撮影)の美しさもあるかもしれませんが、波多は伊勢の国の入り口に位置します。伊勢神宮の内宮を祀るのは皇祖神の天照大神、一方外宮に祀るのは豊受大神で、波多神社の祭神も宇賀神、豊受大神と同神です。まずは伊勢の国の入り口で土着神にお参り、、、(外宮を先にそして内宮参りの由縁)。さらに考えられるのは、古代波多神社あたりまで海岸線が入り込んでおり、半島の付け根に神社が立っていたような景観でした。天武天皇の幼名は大海人皇子、海上交通を掌握していた海人族との関係は周知の通りです。一志郡史によると、古代一志には海人氏の存在も認められ、波多氏が壬申の乱でなんらかの功績を残したと関連づけられるのならそれは土地褒めの歌としても繋がっていたのではと考えています。。歌としては皇女達の永遠性を歌った歌ですが、そこには波多で歌う事に深い意味があったのです。

 中盤に出てくるのは大津皇子が歌を詠んだ磐余(いはれ)の池。発掘調査の成果で磐余の池の堤跡か?とされるのが奈良県橿原市東池尻あたり。発掘調査報告書を持ってそこに立ってみると、天香久山が池背後に見られる立地でした。ありがたい事に現代技術を駆使し私でもその写真に池の水をはり鴨を泳がせる事ができましたので、あなたの目に映っている映像は、大津皇子が謀反の罪をきせられ最後に見た磐余の池そのものとなっています。ちなみにアップの鴨はヒドリガモ(カモ科マガモ属)。古代からいたとされる鴨の一種です。

 その大津が処刑された場所が戒重(奈良県桜井市戒重)。大津皇子の邸宅、訳語田(おさだ)の家のあった場所、現在の春日神社から程近く、阿倍丘陵の先端です。映像は春日神社で撮りました。

 いよいよクライマックス。ここからは歌そのものを。

 現世(うつそみ)の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)と我(あ)が見む

磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに  万葉集  巻2−165、166 大伯皇女

 

 この2首の前に歌っているのは「神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに」、「見まく欲り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに」。伊勢の神宮(かむのみや)で斎王としての任を解かれ戻ってきた大和。しかし既に弟、大津皇子はいない・・・。「何しか来けむ」(何のために帰ってきたの?)と繰り返しているこの2首に、大伯皇女の悲しみの頂点があると感じている。いはば絶唱。そして二上山の歌、「現世の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世と我が見む」。現世に生きる人である私は明日からは二上山を弟そのものとして見続けていくわ。「現世に生きる人である私」、客観的に自身を見つめ生身である限りは生涯かけて弟を見続けていくという強い決心が感じられる。この歌の前に大津皇子の屍(しかばね)を二上山に移し葬る時にとあり、その場所については葛城市染野 鳥谷口古墳が最有力。二上山はサヌカイトの産地。石切場も見られる。この古墳前に初田川が流れる。砂防工事の為その景観は古代と異なっているが古地図と併せその上流に古代の情景を求め歩けば「磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに」の歌が活き活きと鳥谷口古墳前に響きわたる。現代語の歌詞と映像にはその情景も織り込んだ。歌の解釈は「磯(ゴロゴロとした水辺の岩場)の上に生えている馬酔木に手を伸ばしとって見せようとしても、その弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない」。罪人として移葬された者のことを口にすることは禁句だった。そこにも大伯皇女の深い悲しみがあり、「現世(うつそみ)の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)と我(あ)が見む」の歌を繰り返し詠めば、だからこそ永遠に私一人が弟を守り見続けていくという皇女の強い決意がひしひしと現代に生きる私たちに伝わってくるのである。大伯皇女の歌を全て読み込む事によってわかった大伯の真の姿。二上山の落日は斎王として 姉として生き抜いた大伯皇女の嘆きも全て包み込んでいるのでありました。

                          

 

                                (2020.5月)

 

♪海石榴市 現代語作詞・作曲・歌 万葉うたいびと風香

 

万葉集巻12ー3101、3102 問答歌

 

紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十の衢に 逢える子や誰

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか

 

三輪山の麓 海石榴市を舞台に繰り広げられる男女の掛け合いの歌です。

古代歌垣で知られる、海石榴市(原文=つばきち、つばいちとも)。名前の通り、古代から椿が数多みられた場所であったことから市の名前がつけられたとされる。ここではあえて踏み込まないが折口信夫は著書の中で誰がどのようにして椿を植えたのかにも言及しています。

さて、紫染めには椿の灰を加える、その椿=海石榴市を起こすための序となっている。

ひときわ賑わう海石榴市、その市の辻をいく彼女、どこの誰でしょうか?名前を教えてよ。

と男性。古代、名前を問うのは求婚を意味していた。

すると女性は、母が呼ぶ大切な名前、申し上げてもいいのですが、行きずりのあなたがどこの誰ともわからずにお伝えするわけにはいきませんわと答える。

母が呼ぶ大切な名前、母しか知らない名前。ここにも意味があり、母しか知らない本名と通名とがあった様子。なかなか奥が深いです。

さて、この勝負、女性に軍配、、、といきたいところですね。ところが古代習俗には、名前を問われたら一度は断るといった習わしがあったようです。男女の歌垣で知られる土地だからこそ歌を口ずさんで山の辺の道、海石榴市観音あたりを歩くと古代の情景がよみがえってくるかもしれません。

ちなみに動画中の写真は数年前に椿咲く頃、海石榴市(現:奈良県桜井市)を一日かけて歩き自身で撮りためたもの。(一部はご協力頂きました方の写真あり)最後の落ち椿は昭和から令和へと正真正銘の椿守りさんのいらっしゃる椿山で撮らせて頂きました。そんなこだわりも感じて頂ければ幸いです。

♪一志万葉ふるさと讃歌 とことめの里  現代語作詞・作曲・歌 万葉うたいびと風香

 

万葉集 巻1−22 吹黄刀自

 

河の上(へ)の ゆつ磐群(いはむら)に 草生(む)さず 常にもがもな とこおとめにて

 

2017年に三重県津市一志町八太での万葉講演会ならびに万葉歌コンサート。

足掛け4年目となった一志町のみなさまとの交流の中で、一志町には万葉の風土を伝える一志町歴史語り部の会さんのような語りびと、また万葉の歴史を学ぶ一志町郷土文化研究会さんのような学びびと、さらに地域でこの風土を守り続ける守りびとのみなさんがいらっしゃることを知りました。そこで万葉のうたいびとである私が何か一志町の皆さまのお役にたてることはないものかと試行錯誤した結果、現代の姿とといにしえとを歌をもってつなぐことができたら、、、と完成したものが一志万葉ふるさと讃歌となりました。副題の『とことめの里』は一志町にある健康、福祉、生涯学習などの複合施設の名称でその由来はこの万葉集からの命名です。一志町で歌われた歌はこの1首のみにも関わらず町をあげてこの1首を大切にしてみえることがジンジンと伝わってきます。

実は巻1−22の歌はすでに1曲「とこおとめにて」(アルバム 万葉歌物語 二上山の落日 大伯皇女の嘆き〜斎王として 姉として〜)として収録済。今回は2作目となります。

万葉の歌というと古代のみの表現にとらわれがちですが、いにしえから連綿と現代に受け継がれている心が宿る一志だからこそ現代の姿も織り込んだふるさと讃歌となって表現することができたように思っています。

開発の波にさらされている万葉故地が多い中でこの1首を大切にされている一志だからこそ過去、現代、そして未来へとあるがままの姿を変わらず伝えていってほしい、、、そんな万葉うたいびとの思いもエッセンスとして加えさせて頂きました。

♪いざよふ雲    現代語作詞•作曲•歌 万葉うたいびと風香

 

万葉集  巻3−428 柿本人麻呂

隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山の 山の際(ま)に 

                                          いざよふ雲は 妹にかもあらむ

 

火葬は『続日本紀』によると、文武4年(702年)に僧道照を奈良県桜井市粟原で3月10日に葬ったのがはじまりだという。この歌が詠まれたのは歌群からみると705年前後と考えられている。題詞には土形娘子(ひぢかたのおとめ)を火葬した折に人麻呂が詠んだ歌と書かれており、土形娘子は伝不詳ではあるが遠江国城飼郡土形、土形氏出身の娘子であったらしい。大意は、愛しい人が今、火葬の煙となって立ち昇っていく。その煙はやがて隠口の泊瀬の山間にさまよっている雲となってゆく、あの雲は僕の愛しい人なのだろうか。。。

愛しい人を亡くし哀しみの中にあるにも関わらず、悲しい、切ないという言葉は一切使わず泊瀬の山間にいざよう雲に自身の哀しみの深さを表現する人麻呂の一心さが伝わってくる歌となっています。泊瀬(はつせ)は、四方を山々に囲まれた籠った場所の意の他、果つる所で泊瀬の意にも捉えられています。山間にかかる雲は泊瀬地方の風土の象徴でもあり、現在もそのままの姿を伺うことができるところに大和の素晴らしさ、桜井の素晴らしさがあるのだと歌を越えた美しさも感じずにはいられません。現在にも通じる古語の美しさ、はかなさも感じながら泊瀬の山々にかかる雲に思いを馳せ人麻呂の心の奥底にあった哀しみに寄り添ってみると、今も何ら変わらぬ日本人の心に触れることができるようです。日本の伝統、文化とあまりにも簡単に言葉だけが先走っていく昨今ですが、人麻呂の中にある最も古くて最も新しい日本人の心、文化の神髄がここにあるように思っています。やはり万葉集はいいものですね。

                        CDアルバム「文に麗はし」に収録

♪伊勢志摩の島影     現代語作詞•作曲•歌 万葉うたいびと風香

(万葉歌物語『伊勢行幸と持統天皇の夢』より)

2016 伊勢志摩サミット三重県民会議応援事業

 

万葉集 巻1−40、41、42       柿本人麻呂

鳴呼見の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 玉藻の裾に 潮満つらむか

釧着く 手節(答志)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ

潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を

 

持統六年(692年)3月6日から20日にかけて行なわれた伊勢行幸。その旅先を偲んで柿本人麻呂が京(みやこ)に留まって作った歌であることが題詞から読みとれる。

巻1−40にある鳴呼見の浦(あみのうら)は、諸説あるが鳥羽市小浜付近とする学説を支持したい。鳥羽郷土史会さんによると現在もあみの浜と呼ばれている小地域を指すそうだ。今、付近一帯は小浜温泉郷とでもいうのだろうか。ホテルが立ち並ぶ観光地に様変わりしているが、浜辺を求めて歩くとわずかながら往時の趣きを残している浜の情景に出会える。

そのあみの浦に立って伊勢湾を眺めると歌のままに一直線に波間の向こうに答志島、そして遥か先にぼんやりとした島影になって伊良湖が望めるまさに万葉のふるさとである。

さて、万葉歌を楽しんでいこう。

1首目は、あみの浦で舟遊びしている乙女たち。まだどこの誰ともわからない。2首目では、あみの浦の向こう、答志島を導き出すのに釧着く 手節(答志)の崎といって、古代人が左手に巻いた釧(くしろ=腕輪のこと)その手の節で答志島を呼び込んでいる。そして1首目の乙女が大宮人(都に使える女官)だったと距離が縮まる。更に玉藻を刈るという行為。これには身を浄めるといった意味合いもあろう。そして、3首目。答志島から更に遠く、潮目の荒い伊良虞(現:伊良湖)の島辺で舟に乗っているのは、僕の愛しい人だったと打ち明けてこの歌が終わる。視覚的な情景はだんだんと遠ざかるのに対して、心の中で思い描いている人は、乙女→大宮人→妹と見事なまでにその距離感を縮めてこの歌を締めくくっている。ちなみに692年の伊勢行幸には行っていない人麻呂であるが、細部にわたってあみの浦からの情景が描かれていることから、過去に人麻呂はここからの景色を眺めたことがあってそれを踏まえての歌であったであろう。

万葉集中の人麻呂の歌の中でも最も明るく歌われた歌と言われているこの歌群を通して、改めて人麻呂の偉大さを教えられたそんな歌となりました。

万葉歌物語を通してこの歌を味わって頂ければ、その前後の歴史的背景と共に人麻呂の詠った伊勢志摩の島影が皆様の心の中に更に広がることを願っております。

 

                              アルバム未収録

 

 

♪泊瀬川        作詞・作曲・歌  万葉うたいびと風香

  (第10回万葉の歌音楽祭 大賞受賞曲)

 

万葉集 巻7-1107、1108               作者不詳

泊瀬川 白木綿花(しらゆふばな)に 落ち激(たぎ)つ 瀬を清(さやけ)みと 見に来し我れを

 泊瀬川 流るる水脈(みを)の 瀬を早み ゐで越す波の 音の清(きよ)けく

 

私の大好きな桜井市を縦断して流れる泊瀬川を歌にしました。

名古屋から近鉄特急に乗って大和へ向かうと、吉隠あたりから眼下に飛び込んでくるゆったりとした流れが泊瀬川です。途中、左側に川の流れが変わると、そこは私の中での通称「プチ宮滝」!ちょうど大和朝倉駅から程近くにあります。そこを過ぎるとまた穏やかな流れに戻り、金屋方面へと流れ進んでいきます。

 歌詞に込めたように、この美しい流れを「見に行こう、見に来たわ」との男女の誘い、誘い合ったであろう言葉のやりとりが1300年前にもこの川岸でされていたのでは、、、と思うだけで歌詞を作りながら往時の情景が浮かんでくるようでした。ここで表現されている「白木綿花」(しらゆふばな)。これは他の句からわかるように、当時ここ泊瀬地方に住む女性、泊瀬女(はつせめ)(未婚の女性)によって、楮などを原料とした造花の白木綿花が作られていました。堰を越す時にはじける水しぶきが、何者にも染まることを知らない純白な白木綿花みたいだっていうんですね。素敵すぎます。同じ「清い」という漢字を当ててますが、「さやけみ」と「きよけく」と、読みを変えているのも、古語の美しさが感じられる表現となっています。どの曲もそうですが、自分の意訳を交えて歌を表現する場合、あくまでも万葉集の句に忠実に、言い換えれば、万葉集の歌を詠んだ作者の想いをそのまま現代の言葉でわかりやすく表現することの大切さをこの歌を作って改めて思い知らされています。

 

                      CDアルバム「文に麗はし」に収録

 

♪祈り~伝 薬師三尊石仏イメージソング~         作詞・作曲・歌 風香

 

万葉集 巻2-112 額田王

「いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 吾が思へる如」

 

奈良県桜井市忍阪にある国重要文化財、伝・薬師三尊石仏のイメージソングとして作らせて頂きました。

この石仏は、一説によると額田王の念じ仏とされており、忍阪より更に宇陀方面に進んだ粟原寺にあったものが何らかの理由によって川の流れの如く、忍阪に辿り着き、現在は区民の人々の手によって守られている石仏です。

イメージソングのご依頼を頂いてから、粟原寺跡も含めて何度か足を運ばせて頂き、透き通るような柔らかな微笑で見つめ続ける姿に、願主がどういった思いを石という素材を通じた石仏に込めたのかを、額田王の晩年の万葉集の句を引用して額田王自身の思いを引き出しながら、歌詞に表現してみました。といっても、一流の万葉歌人とはやされた額田王に関する文献史料は、皆さんもご存知のように非常に乏しく、石位寺のある風土や、彼女を取り巻く人々、金石文などをあたっていきながらの制作となりました。また、忍阪の皆さんが日々大切に守ってみえる姿にも私自身深い感銘を受け、今ある姿といにしえ人の心を結んだ歌詞も織り込んでみました。

 

                     DVDアルバム「祈り」

                     CDアルバム「文に麗はし」に収録

 

♪寒からまくに                   作詞・作曲•歌 風香

 

万葉集 巻巻2−114、115、116但馬皇女/203穂積皇子

 

「秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも」

「後れ居て 恋つつあらずは 追ひしかむ 道の隈廻に 標結へ我が背」

「人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」

「降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに」

 

万葉集でもいわずと知れた穂積皇子と但馬皇女との悲恋物語です。

この4首の扱いについては、学者さんたちの中でも意見の分かれるところで、特に115番の句(後れ居て・・・)については、3首との連歌ではないという解釈も多くありましたが、私の心の琴線に触れた文献のおかげで、4首揃えた楽曲として但馬皇女の真実の思いを歌に載せることができたように思っています。

曲の構成については、ずいぶんと悩みましたが、但馬亡き後、雪がしんしんと降る日に穂積皇子が吉隠(奈良県桜井市吉隠)の方角に目をやり、思いを馳せる場面を歌詞冒頭にすることによって、曲をはじめることにしました。

但馬皇女の場面は、あくまで穂積皇子の心の中での回想シーンとして捉えて頂くことによって、タイトルとした「寒からまくに」の言葉がより深みを増すことを願っています。

「朝川渡る」。これは穂積に会いにいくところだった、いや帰り道だと議論がつきませんが、ここではそれはおいておいて、朝川を渡った但馬の覚悟と強い決意、更に穂積に寄せるただただ一途なひたむきな愛情が伝わってきます。

 また「言痛く」(こちたく)など、身を突き刺すような古語の表現が多く見られます。悲しさや辛さの中にも現代には美しい表現となって心の中に広がってきませんか。こうした日本語の美しさを、現代語を織り交ぜながら表現した歌詞からも感じて頂ければ嬉しく思います。尚、映像に出てくる吉隠の雪景色は、制作当時忍阪区の方々が雪降る吉隠を日々待ちわびて下さり、雪景色となった朝、長靴を履いて徒党を組んで現地へ赴き写真撮影してくださったものです。こうした風土そのものの映像は穂積皇子、但馬皇女の思い、そして忍阪区の思いを1つとしてくれたように感じています。そんな映像も合わせてお楽しみください。

 

 

                      DVDアルバム「記紀万葉さくらい」

                      CDアルバム「文に麗はし」に収録

 

                                     youtube:2016「万葉恋文歌絵巻」よりオリジナルバージョン